本日の新聞に、人名漢字に関する記事が載っていた。
 人名漢字では無い字を名前に当てたとして出生届を受理しなかった某市の対応を不当だとして、その両親が出生届の受理を求め、裁判を起こしていたらしいが、最高裁において、その字が社会通念上、常用平易な文字であるとはいえないことを理由に、名古屋高裁決定を支持、両親の抗告を棄却する決定をしたとのことである。
 個人的には、漢字の持つ表意という面についても特別おかしな印象もなく、かつて話題になった○魔君のようなふざけた意図や考えがある訳でもないと思う。ルールに基づき判決を出した最高裁の言い分も確かに理解できるが、5万字以上あると言われる漢字(表意的に名前として用いるには問題のある漢字の使用は確かに論外)のうち、たった数千字の常用漢字人名用漢字しか使用を認めないような制度は流石にどうだろうかと思ってしまう。
 むしろ、常用漢字を使用していても、読めないような当て字の名前を何とかしてもらいたい。最近は、周りの人が使わない漢字や、読み方で子供の名前を付けることが子供の個性に繋がると勘違いしている人が多いように感じる。子供の名前というよりは、親が自己表現をする為に変わった名前を付けようとしているのではと感じるのは、自分だけだろうか。
 吉田兼好徒然草百十六段において、同じような事を痛烈に批判している。平凡な名前であっても、ありふれた名前であっても鈴木一朗松井秀喜等は、堂々と個性を主張し、世界という舞台で素晴らしい活躍をしている。立派な名前をつけてもらっても、自分のような凡人は「名前負け」の部類に属してしまう。しかし「平凡こそ非凡」という言葉がある様、親がこだわるべき重要な部分は、やはり「どう子供を育てるか」だろう。