• 苦しいこともあるだろう
  • 言い度いこともあるだろう
  • 不満なこともあるだろう
  • 腹の立つこともあるだろう
  • 泣き度いこともあるだろう
  • これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である

 大学時代にある先輩から教わった山本五十六の名言である。忙しく気持ちが落ち着かない時、マイナス方向へ気持ちが引っ張られるような事があった時、その都度、この言葉を思い出し、心を落ち着かせて物事への対処を図ってきた。
 春を迎え、(自分も含めて、)沢山の方々が新たなスタートラインに立っていることだろう。これまで、幾度となくこのブログに登場してきた長男も小学校を卒業し、中学校という新しい環境での生活を迎えようとしている。次男の方も次は年中組となる。次男の場合、環境の変化や生活の変化はないが、成長は著しい。最近では下手から投じるボールも7割程度打ち返せるようになってきた。
 新しい環境での新しい生活は、たのしい事ばかりが待っているわけではないだろう。苦しい事も不満に思う事も多々あるだろう。その時は、少し立ち止まってこの言葉を思い出し、肩の力を抜いてみる。厳しいけれど優しい言葉である。これらの言葉を噛み締め、どのような状況下においても、ベストなパフォーマンスを展開できるよう、努力していきたい。
 それでは、皆様お元気で・・・。

 東日本を襲った大震災から約2週間が経過した。被災地の方々や被災地周辺の方々においてはまだまだ御苦労の掛かることばかりと思うが、1日も早く平穏な生活が送れる日が来るよう、心から祈りたい。
 東日本大震災による被害に心を痛めつつ、世間一般の動きを暫く追ってきた。各界のいろんな方々や団体がいろんなアクションを行い、有事における対応や復興に向けた支援を展開している。日本国民全体のエネルギーが被災地への支援と復興に向けられていることが伺われる。そんな中、高校野球も無事開幕、そして、プロ野球の開幕問題も、昨日4月12日のセ・パ同時開催という結論に至ったよう。
 今日はこのプロ野球開幕問題について一言言いたい。世間は開幕延期を訴え表だって動いていた選手会長選手会を賞賛し、3月29日開催を強行しようとした某球団を批判しているようだが、物事の本質は本当に開幕時期という部分にあるのか疑問に思う。感情論を先行させれば自粛すべきとなろうが、開幕を2週間遅らせただけで、争点の一つとなっている電力の問題はその時に解決しているのだろうか。結局、開幕を遅らせたというだけであって、問題の解決迄には至っていない。
 プロ野球は選手だけで興行できる物ではない。たくさんの人たちや、色々な関連会社が開幕に向けて準備をしている。感情論による自粛を先行させ、企業活動が延期になったりすることで経営体力のない企業への影響はどうだろう。そしてそれに連鎖する経済停滞は国の税収を圧迫したりすることにならないか。早くも増税論が持ち上がっていることを考えれば、感情論の先行が被災者及び被災地への復興資金を削ったりすることにならないだろうか。マスコミの論調は選手会側に偏りすぎである。分かりやすい対立構造を世間受けするようにマスコミが造り上げただけである。
 有事を経て、本当に日本を悪くしてきたものが何であるか、その正体が分かったような気がする。

 京都大学等、4つの大学入試問題が入学試験実施中にインターネットの掲示板に投稿された問題の件で、仙台市の予備校生が偽計業務妨害容疑で逮捕されたようである。
 カンニング等の不正行為は厳重に取り締まるべきものであって、発見した場合(若しくは発見された)は罰則を与えなければならないものだと確かに思う。しかし、連日の報道を見ていると、結局何が問題だったのか分からなくなる。
 不正行為そのものが悪い・不正行為を許した大学側の管理体制が悪い・インターネット社会に問題がある・手口に問題がある等々。どのような切り口でこの問題を社会に伝えるかは報道の自由なのだろうが、物言わぬ弱い者に対しては、徹底的に叩こうとする報道姿勢に現代社会の病理と問題を感じる。
 不正を犯したこの少年は、報道機関による社会的制裁は十分受けたはず。これ以降は、司法の判断に委ねれば良いだろう。報道は、そんなことよりも「中国軍機が日中中間線を大きく越えて尖閣諸島に接近したこと」を一面に取り上げ、中国等の力のある国に対し、抗議や批判の声を上げてみせよ。

 先日、長男が通う小学校において、小学校生活最後の授業参観が行われたようである。小学校生活最後の授業参観ということで、通り一遍の授業参観ではなく、総合学習というコマにて行われたようである。家の方々に対する感謝の気持ちを文に綴り、児童一人一人が教壇の上に立って、そこで読み上げる内容であったらしい。
 長男は「野球に没頭出来る環境を作ってくれた」ということを主体に感謝の気持ちを綴ったようである。怪我や病気をしない丈夫な体に産んでくれた母親への感謝。朝早く起きて弁当を作ってくれたり、普段の食事に気を配ったりしてくれた母親に対する感謝。泥だらけになったユニホームをきれいに洗ってくれた母親への感謝等々・・・。
 父親は授業参観に絶対来ないという前提のものであったとしても、父親なんていうものは所詮そのような扱いを受けるものなのかと思ってしまう。困った時にいつも相談に乗ってやったのは一体誰だ。毎日の自主練習に今でも付き合っているのは一体誰だ。野球の理論と細かな技術を教えたのは一体誰だ・・・。
 何だか寂しい気持ちで一杯になるが、野球という側面においては、長男を褒めたりした記憶が無いので、思えば確かに「感謝」には値しないだろう。父親が作文の中に登場してこないことも何となく納得できる。中学校・高校・大学と、この先何処まで野球を続けたいと考えているのかは分からないが、野球を少しでも長く続けたいと思っているなら、母親への感謝だけはこの先も忘れないで持ち続けてほしい。父親は「出来て当たり前だと思うから褒めない・もっと出来るはずだと思うから一段高い要求をする」という考えをもった絶滅種に近いタイプの父親なので、この先も褒めたり優しくしたりすることはないだろうから・・・。

 昨日、菅直人首相就任後初の党首討論が行われたようである。
 社会保障と税の一体改革について論戦が行われている場面をニュース等で確認したが、全く噛み合わない酷い党首討論だったことが伺われる。菅直人首相が言うように「どの内閣、誰が総理でも避けて通れない課題」であるなら、一国民として、菅直人首相ではなく、なるべく有能な首相及び政党に課題への取り組みを任せたい。
 社会保障と税の一体改革が待ったなしの状況であることは理解できる。しかし、それならば財源の破綻の大きな原因となり得る高速道路無料化・子ども手当て・朝鮮学校無償化等のバラマキ政策をそのまま推し進めようとすることは大いなる矛盾ではないのか。そもそも民主党が政権を取れば、無駄が削減され、財源が確保され、消費税議論も4年間はしなくて良くなるのではなかったのか。「仮免許」や「無知であった」等との言葉では済まされない事態であるはず。
 先の衆院選において民主党が掲げた詐欺フェストについて、「詐欺」であったことを明確に認め、国民にお詫びすることから始めないと、何処の誰と議論しても平行線をたどるばかりではないのか。論点をすり替え論破したつもりでいる菅直人首相の顔が映し出される度、後ろで拍手している民主党議員の姿が映し出される度、怒りが込み上げてくる。かつて経験したことのない位のイライラ感と閉塞感を感じているのは、恐らく自分だけではないだろう。
 「協議に乗ってくれるなら案を出す」等。呆れて物も言えなくなる。それが政府与党の言うことなのか。政府与党は自分たちがやりたいことを推し進めるために率先して案を提示するものなのではないのか。与野党協議のために案を出す等ということは、政府与党が考えることではない。
そのうちエジプトのように首相官邸を囲まれる日がくるかもしれない。

 成年後見制度に関する選挙権喪失について。
 後見開始の審判が下ると、選挙権の剥奪にまで及ぶ公選法の規定は憲法違反だとして、知的障害を理由に被後見人となった女性が昨日、国を相手取り、選挙権を認めるよう求める訴訟を東京地裁に起こしたとのこと。
 成年後見制度そのものが、どちらかと言えば認知症の高齢者の権利を擁護する為の制度になりかかっていること問題があると感じている。判断能力が一般的な人に比べ、「劣る」とされる部分があったとしても、それが高齢者なのか、若年者なのか、認知症による欠落・欠損なのか、精神障害による停止・停滞・退化なのか、知的障害による未発達なのか、それによって、現在持っている能力がそれぞれに異なるはず。一方に偏りがちな制度設計であるからこそ生じた問題であり、それが今回のこの訴訟に繋がったのではないだろうか。
 そもそも民事上での行為を行使するだけの能力が有るかどうかに基づき下される審判が、そのまま公的権利の制限にまで繋がっていくこと自体、原則としておかしいのかもしれない。(後見開始の審判が下った時点で、)全て一律といった基準にて、自動的に選挙権を剥奪されるというならば、やはりそれは訴訟を起こした方の言い分が正しいということになるだろう。
 ただ、その人(被後見人)の個別的日常までをもはかることは本当に難しく、これを認めてしまうと今後の制度運用に(審判が下るまでの日数や費用に)大きな変化が出てしまうことも予想される。なるべく個人の権利を擁護しつつ、且つ、被後見人の権利が悪用されたりしないような仕組み。言うのは簡単だが、探ってみると実に難しい問題である。
 大多数の人が現政権のマニフェストを信用し、世論に流され、実際に投票したということの方が、実は、大きな問題なのかもしれない。

 経営学高校野球を組み合わせたビジネス本風の小説「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(もしドラ)を読んでみた。組織や企業のあり方、マネジメントの仕事、役割、使命など組織運営の全般を解説するピーター・ドラッカーの名著「マネジメント」から、人材活用やマーケティングなどを学び、野球部で実践しながら、甲子園を目指すという物語である。
 個人的な感想になるが、マネジメントの基本に触れるという意味では確かに売れるだろうなという印象の本である。また、自分自身で仕事や人生における方向性等を探っている人にとっては考えの整理に使えそうな内容の本である。なにより常日頃から、物事を野球に置き換えて考えがちな自分にとっては、とてもタイムリーな例えであった。
 但し、ケチを付けたくなる点が一点ある。作中において、「ノーバント」・「ノーボール」というチーム方針が挙げられている点である。特に「ノーバント」については納得がいかない。打高投低になりがちな現在の野球において、みすみすアウトを1つ献上するのは勿体ないという理屈から挙げられた方針である。しかし、攻撃的2番打者なんぞ存在しなかった時代に、高校・大学とずっと2番打者を張ってきた自分にしてみれば、バントを蔑ろにされるのは気分の良いものではない。
 小説であるし、また、そもそもの趣旨が違うということも十分分かってはいるが、今後の野球人生において、バントやバスターヒッティングに活路を見出そうとしている長男の為にも言っておく。中盤や終盤の大事な局面において最も攻撃的で勇気のいる戦法は「送りバント」や「スクイズバント」である。良い投手を切り崩す為の打開策の一つが「セーフティーバント」である。3割打てる打者も良いが、10割バントを決められる打者もまた良い打者である。一般的には地味でつまらない戦法かもしれないが、バントが確実に出来る選手の攻撃バリエーションは「打つだけ」の人より幅広いということを強調しておきたい。