両親より暴行を受け、小学校1年の男子児童が死亡した事件について、同区の子ども家庭支援センター及び学校側も父親による暴行の事実があった事を把握していた様との報道がちらほら聴こえるようになってきた。このような事件が起きた時、必ずといってよい程、公的機関や学校側が批判の対象に挙げられる。
 公的機関や学校側に落ち度がないとは云えないだろうが、果たして・・・。
 毎度の事ながら、このような報道が為された以上、世論はメディアに煽動され、対応出来なかった区の公的機関や学校への批判に向かうだろう。反論出来ない区の公的機関や学校に批判の矛先を向け、「悪」という存在を一方的に確立することによって、報道の「正義」を広く一般に印象付けたいというメディア得意のやり方は、見ていて、いい加減にうんざりする。
 区の公的機関職員や学校教員と云えども、某家族にすればあくまでも外部の人間である。外部の人間が家庭内に踏み込もうとする行為は、既に権力が与えられているメディアの人間が考えるより相当に難しい事である。そのような事も理解しようとはせず、一方的に批判を展開しようとする姿勢はどうかと思う。何事に対してもメディアが批判ばかりを展開してきたおかけで、最近の社会は住み難い、生き難いものになったと感じる。
 メディアが「正義」だと主張したいなら、批判や偏向報道ばかりではなく、区の公的機関職員や学校教員に法的権限を持たせるよう、或いは、スクールソーシャルワーカーを学区単位で配置させ、相応の権限を持たせるよう等、社会の仕組みが良い方へ変革するよう、社会に対し提言の一つでも行ってみせろと言いたくなる。そのような提言が常に対極としてあるのなら、ここまでメディアに対する不信感は抱かなかったはずだ。