最近の新聞に、学校の設備が整っていないことを理由に、本人及び両親が希望する某中学校への入学を認めなかったのは不当として、車いすで生活する女子生徒と両親が、町教委に入学許可を求めていた訴訟で、地裁の裁判長は、町教委に仮の入学許可を義務づけるよう決定したとの記事があった。
 「ノーマライゼーション」という理念や法整備については、一昔前と比べ、随分と進んだように思われる。しかし、このような記事を見ると、実質の部分の整備については、未だ未だ理念に追いついていない感じが拭えない。最近、脳波を読み取り、自動で動く車椅子の試作に関する記事を見かけた。素晴らしい技術だとは思う。しかし、それを活用できる生活環境が少なく、素晴らしい技術の恩恵を本当に受けることが出来る日は未だ当分先のことだと思ってしまう。
 福祉に携わる者の論として、「ノーマライゼーション」理念を追求し、町教委に対し変革を求めていくべき気持ちは当然ある。先進国を名乗るのであるならば、障害のあるなしで区分けしようという姿勢は何となく納得がいかないものである。しかし、反面「人権」や「社会正義」という言葉だけを以て、自己の要求だけを通そうとする考えも最近どうかと思う部分も正直ある。入学を認めなかった行為は確かに「差別」だと思うが、現実を直視することも必要なのではないだろうか。
 今の社会の現状(障害者に対する社会の現状)を見れば、例え「訴訟」で建て前を即時解決することが出来ても、本質部分の解決には未だ未だ時間が掛かるだろう。本質が解決されていない部分に身を置くということは、それだけ当事者がリスクを背負いながら通学するということになる。冷たいようだが、理想論・感情論そして道徳的見解とは別の次元の問題であることを理解し、コストや予算という現実の問題から答えを導き出すべきものだと思う。これが今の社会における現実であり、矛盾でもあるのではないだろうか。