昨日、衆院本会議において、脳死を人の死と認め、15歳未満の子どもからの臓器提供を可能にする案(A案)が可決された。本人の意思表示がなくても家族の同意で臓器の提供が可能になる為、(参院においても可決が為されたならば、)臓器移植の拡大が期待されるとのこと。しかし一方では、救急医療現場は、人手不足が深刻で、移植数の拡大に対応しきれない可能性が高い等、現在の移植医療における課題も多くあるという。
 医療現場における問題も然ることながら、この法案の一番のポイントとなるのは、やはり死生観に関する問題であろう。存在している人の数だけ死生観があり、その中において移植を求める側の観念、脳死状態の方を支えている側の観念が相対する形を為す。観念だけではなく様々な思想や感情も併せて扱う問題であるだけに、参議院においても相応の議論がなされ、すんなりと成立に至るとは思われない。
 身近にはない問題なので、ここで述べる自己の見解を無責任だと捉える方がいるかもしれないが、この法改正案の衆院可決については肯定的に捉えている。先ず、臓器移植を推進するための条件として「脳死が人の死である」という定義が必要なだけであって、「脳死が人の死である」ということが普遍的な事実として認定された訳ではないと解釈が自分の中にある。そしてその解釈の上に、あくまでもこの法改正案は家族側に適用しようと思う意思が働いた場合においてのみ効力を発揮するものというルールがある。よって、仮に法改正で定められたからといって、これまでの自己の認識や考え方までを否定し変化を求めるものではないという見方が出来る。この思考に基づき肯定という立場をとっている。勿論そこにおいては、選択の自由が完全に保障され、どちらを選択したからといって批判の対象になることはないという前提があってのものである。
 この法改正案の賛否は、自分がどちらの立場に立って考えるかで変わってくる。自分もこのような場面に直面したことがないから上述したような見解にあることを薄々述べながら感じている。いずれに向かっても非難の噴出が必至な案件であることに間違いはないのだろう。我々は事の行方を参院に委ね見守るしか方法はないのだが、このような案件こそ、国民投票を行い、国民自身の意見を直接問うべきなのではないだろうかと思っている。