拘置所に拘置されている時に、某新聞の定期購読が不許可とされ精神的苦痛を受けたとして、被告の男性が国に220万円の賠償を求めた訴訟の控訴審判決が昨日あったらしい。裁判長は「購読規制は新聞閲読の自由を侵害する違法な処分」との判断を示し、国家賠償については、「長年にわたり、特に疑問もなく続けてきた実務上の運用で、過失責任はない」として、請求を棄却した。
 拘留所内の生活については、想像することも出来ないが、お金を出せば、新聞の定期購読が出来たり、ジュースやお菓子を買ったりすることが出来ると何処かで聞いた事がある。裁判所による刑の執行を待つ者であっても、相応の環境や権利は保障されるというものだろう。自身も日本という国が法治国家である以上、誰であろうと「権利」は保障されるべきものだと考えを一応は持っている。そのような事から、今回の裁判所の判断は相応に妥当なものだと思っている。
 しかし、拘留所という特殊な環境の中での権利の主張である為、素直に消化出来ない感情もあるのが実際である。権利の主張というよりも我儘に近い印象を持つ。拘留所内においては、某新聞の購読ができなくても、別の新聞の購読は可能な状況にあったという。ならば、別の新聞により代替えしようとは思わなかったのだろうか。そのような状況しかないのであれば、与えられた状況で最善の方法を取るのが相応しい行動だとは思わなかったのだろうか。法を犯した者が、法を以て権利を主張する事に矛盾を感じてしまう。
 犯罪の裏側にどのような事情があるかは知らない。しかし、自分の欲求を満たすため、法に触れる行為を優先させた者は、それなりのリスク(権利の制限)を背負うべきだと思う。権利の主張は、あくまで義務の履行とワンセットとして考えるべきで、義務の履行が出来ない者は、権利を全面的に主張すべき立場にないという考え方も一方で持っている。犯罪を犯したものに対する過度な人権擁護もどうかと思う時が稀にある。
 よりによって、拘留所という、一般社会とは異なった環境の下、自己の権利を発動させるとは、この者の行動の真意がいま一つ理解できない・・・。