コミュニケーションとは、言語・映像・身振りその他の記号を媒介として、知識・感情・意思等の精神内容を伝達しあう人間の相互行為過程をいう。コミュニケーション過程は、精神内容(意味)を記号化して発信する「送り手」、記号集合としての「メッセージ」、記号を搬送する「メディア」、記号を刺激とし受け取ることによって送り手の精神内容を自らの内部に再現する「受け手」という、概ね四つの要素によって構成される。
 マス・コミュニケーションは、特定の送り手が、散在する不特定多数の受け手に対して、放送、印刷などのマス・メディアを通じて、公なメッセージを伝達するもので、送り手と受け手の役割は分化し固定化されている。
                     「社会学の要点整理」より抜粋
 先日行われた長野での聖火リレー、毒入り餃子、遡って海底油田等、様々な報道により中国に対する認識が180度変った方も多いだろう。自分もその内の一人である。日本で行われた聖火リレーのはずなのに赤い国旗が沿道を染め、中国人留学生らによる傍若無人なたち振る舞いを報道を通して知り、正直嫌気がさした。ここまでナショナリズムが高まってくると、中国国家は次に何を起こすのか・・・。本当に心配でならない。
 ただし、こう思っている自分の考え方もある意味危険なのかもしれない。マス・コミュニケーションは、前記したように送り手と受け手の役割が完全に分化し固定化されてしまっている。これにより、ある種のメッセージを一方的に送り続けることによって、受け手側の感情を操作することも可能となるのである。ここ最近の中国に関する報道も、実は・・・で、自分達はそれにのせられているだけ。ということがあるのかもしれない。
 極端な話となるが個人のブログにだってそのような一面はあるだろう。顔が見えないから本音が書ける、不特定多数の方々に自分の考えていることを知ってもらえる等という利点はあると言えばある。しかし、(自分だけかもしれないが)双方向性に欠ける為、受け手側に対する配慮がやや低下してしまうという欠点もある。内面的成長の過程において、相手の顔色を見ながら話しをするということも実は必要だと思っている。表情、身振り、声の強弱等を確認しながら、送り手と受け手の役割を交互に行うパーソナル・コミュニケーションこそ、今の時代に必要なのではと突然思いついたので述べてみた。