生きていく上で、何故と思うことが多々ある。
 人の「死」についても、そのうちの一つであろう。
 屈強な体や精神を持ち、「死」とは程遠いと思われる人でさえ、突然「死」を迎えることもある。そこに至る過程が長い期間あるならば、準備を行い、受け入れることも出来るだろう。しかし、そうでない場合は、まさに「何故」という感情だけが先行してしまい、現実を見つめようとする力が低下してしまう。昨日はそれを実感した一日だった。
 時間が経てば、今有る感情を心の隅に押し込め、やがて「死」を受け入れできる日が来るだろう。もしかしたら、時間の経過とともに、その人の存在そのものを忘れてしまい、何事もなかったように過ごしているかも知れない。
 実際に一日が経過し、昨日のような激しい感情は湧いてこない。そして昨日の出来事を冷静に整理しようとしている自分がいることも認識できる。ただ、その一方でこの人を思い出したり、以前に聞いた言葉を噛み締めようとしている自分がいることも認識している。
「強い気持ち、諦めない心を持て」
「自分を中心にゲームを組み立てれば、試合中に苦しいなんて思うことはない」
 もっと沢山言葉を交わしているはずなのに、厳しい言葉ばかりが思い出される。何故、このような言葉ばかり思い出されるのか分らないが、きっと何らか意味があるのだろう。
 出来るなら、ずっとこの先も、「最高の先輩」であってほしかった。